私はテレビを全く見ないので、世界情勢の入手先は専らネットニュースになります。
特にヤフーニュースは手軽に読めて、かつ「そのニュースを読んだ人たちのコメントが掲載されている」ので、私の意見が曲がっているのかどうかを測る目安の1つとしても参考にしたりしています。
そんな中、私自身がブログをやっているせいかもしれませんが、人の文章が気になって仕方がないんです。
私の文章が完璧だと言っているわけではなく、そして誤字脱字という問題でもなく、とにかく「気になる表現」がメチャクチャ多いんです。
今日はそんな話。
「いう」はいつから「ゆう」になった?
「てゆーか」「そーゆーこと」という表現は昔からあったけど…
最近、私がネットニュースのコメントを読んでいて、とにかく気になるのがこの表現です。「いう」を「ゆう」、あるいは「ゆー」と表現する人がかなり多い。
私は30代男性ですが、私が高校生くらいの頃は私の周りにもこういう人は結構いました。どちらかと言えば遊びたい盛りの人や、カタカナを頻繁に利用する人に多かったイメージです(「マヂ」とか「パない(半端ない)」というような表現をよく使用している人に多いイメージ)。
この記事を書いている2020年2月は、やたら加藤紗里さんのネットニュースが出てくるのですが、加藤さんが「てゆーか」「そーゆーこと」と表現している分には全く驚きません。
しかしながら、コメント欄の上位に「そうゆうことが~」というように書かれていて、しかも「そう思う」を集めていると、ちょっとだけ気になるんです。
若い人に多く見られる表現?
言葉は時間と共に変わっていくものなので、私が義務教育を受けていた頃はダメとされていたものが、今は問題ないということは珍しくありません。
例えば「ら抜き言葉」が有名ですが、今はそれもOKだったりします(厳密にどうなのかは専門家に聞いてみないと分かりませんが、少なくとも前みたいに「その表現は間違っている」と指摘する人は減りました)。
ということで、もしかしたら今の十代は「いう=ゆう」という教育を受けているのではないかと思ったりもするわけです。
子供がいれば子供を通じて「今はそうなったのか」という気付きも得られるでしょうが、残念ながら私に子供はいないので。
「そうゆう事ではない」
このような表現、私はちょっと気になるんです。私なら「そういうこと」と書きます。「ゆう」も気になりますし、「事」もちょっとだけ気になります。
どっちが正しいとか間違っていると言いたいのではなく、今私が書いている文章が「古い人が書く文章」のような気がしてならないのです。
私自身、堅苦しい文章にならないように「私的には」という表現をすることがありますが、これは故・飯島愛さんが作った流行語だったと記憶しています。
本来であれば「私的には」という表現ではなく、「私としては」と表現するのが最適だと思いますが、そこは私なりの型崩しのようなものです。
「そうゆう事ではない」も書き込み主にとっての型崩しであればいいのですが…。ヤフーコメント欄には色んな人がいて、ちょっとした誤字脱字に文句を言う人も珍しくありません。
そのような人たちが「いう=ゆう」を完全にスルーしているので、「もしかして今は普通の表現なのかな?」と思ったりもしています。
「周りのサポートってゆうけどなかなかできないと思う、」
「ゆうけど」にも当然引っ掛かりますが、それ以外にも句読点の使い方や「中条さん/沢尻エリカ」という表現も少し気になります。さん付けと呼び捨ての境界は!?年齢!?
ちなみに句読点についてですが、某掲示板では丁寧に句読点を使っている書き込みに対し「昭和かよ」と突っ込んでいる場面を見たことがあるので、あまり句読点を使わない文化があるのかもしれません(Twitterだと文字数制限もありますからね)。
あと今回の趣旨とは違うのですが「~だしね」「~って聞くしね」とか、私としてはドキッとしてしまう表現です。
私もブログを書いていて、話しかけるような文章を書きたい場合、「~ですし」という表現を「~ですしね」と書きたくなることがあります。
しかし「しね」という部分が少し引っかかって、どうしても話しかけるように書きたい場合は「~ですもんね」と回り道をしてしまったり…。
そしてこの人、「サポートってゆうけど」の後で「かわいそうだとか言って甘い」と書いています。完全に「ゆうという(言う)」を使い分けているんです。
私が気にしすぎなだけであれば問題ないのですが、なにか難しい規則性が生まれているようで、とても気になります。
ちなみに文章における方言も気になりますが、「あかんのちゃうかな」という表現はあまり引っかかりません。
「言う/事/物」はすごく気になる
今回は「いう/ゆう/ゆー」という表現の仕方が気になるというテーマで進めていますが、私自身、幼稚園くらいの頃は「ゆう」と表現していていました。なぜなら口で発すると「ゆう」に聞こえるからです。
それを親から注意され、「いう」と叩き込まれました。理由は分かりませんが、文章にするときは「いう」であると。そして伝言を頼むときは、口では「ゆっといて」でも、文章にすれば「言っといて(言っておいて)」であると。
この頃はまだ「そういうものだ」と言われて飲み込んでいましたが、今となっては「どういう時に『言う』になるのか」など、文章を書いていて悩む局面が出てきます。
もっと言うと「こと/事」や「もの/物」は、もっと気になります。
合ってるかどうかは別にして、自分の中では一定の基準があるのでそれに従っていますが、これも合っているとは限らないでしょうし、なんなら「世の中の大半の人が理解していないことであれば、正しいとか正しくないとか言うのも微妙じゃない?」という感じです。
ちなみに私の基準です。
「事」は、大変な事とか厄介な事という時に使ってます。状況の説明(英語でいうところのcaseに該当する場合)は漢字の事にしますね。
「物」は、固体かどうかで使い分けてます。「物が多い」という時は漢字で表現しますし、「大したものだ/嬉しいものだ」という場合は平仮名です。
物書きとして意図的に避けている表現
一応、このようなブログを運営している立場上、文章には気を遣っています。
もちろん間違いも多いのですが、「私的」のようにあえて崩している場面もありますし、友人と会話をするような感じの表現を使うことも多いです。
その一方で「ちょっと危険だな」と感じたら、別の文章に置き換えたりすることも珍しくありません。
具体例としては「敷居が高い、低い」は最たる例で、取っ付きにくさなどを表現する時に用いられるケースが多いですが、実は違うんですよね。でも、あまりにもそのように使う人が多いから、もはや形を変えつつあるのかなぁと思ったり、思わなかったり。
というわけで、あえて崩して使いたいけど、崩して使ってるのに「その使い方は誤用で、正しくは~」と指摘されたら悲しくなってしまうでしょうから、私の場合は「取っ付きにくい=ハードルが高い」とか、もしくはストレートに「取っ付きにくい」と表現します。
同じ理由で「的を射る/的を得る」とかも厄介です。そして文章を書くことが多い場合は、この表現を使いたくなる場面が少なくありません。
私が中学生の頃は、的を得るという表現は認められていなかったと記憶していますが、これも今はどうなっているんでしょうか。ヤフコメでも結構見ますし、もしかしたらもう正しい日本語として認められているのかもしれませんね。
書籍レビューを書く場合は「さわりの部分を紹介します」なんて書いたら、文法警察が食いついてくるでしょうし、このような表現は山ほどあります。
ニュースとかを見ていても「確信犯」の使い方が気になったり、「絆」に関してもそうです。
テレビで「本来は~」と言われても、それが周知されていないのであれば、誰も知らないマナーのようなものと一緒で、そうなってくるともう「ニュアンスが伝わればいいんじゃね?」って思いませんか?
最後に
私にとって「いう」を「ゆう」と表現することは、恥ずかしいことだと教わってきました。それが今や当たり前のように使われている部分を見ると、ちょっとしたジェネレーションギャップのようなものを感じます。
もちろんコメントを書き込む人も不特定多数なので、加藤紗里さんのような人が書いているのだと思えば容易に納得はできます。
…が、過去に常識だったものが覆った例はいくらでもあるので、自分の中の常識だけで決めつけるのではなく、「もしかすると新しい常識なのかな?」くらいに思えるような、柔軟な考えを持っていたいとゆうお話でした。